結論

研究動機で述べたように、芥川龍之介の作品を読んだ後で、作品の中の複雑な人性や人間の情けにとても、印象的であった。そのために、芥川龍之介の歴史物語におけるエゴウズムをもっと深く探究したいので、「芥川龍之介の歴史物語におけるエゴイズム」をテーマとして卒業論文を書き始めた。

まず、第一章では、芥川龍之介の初期時期の『羅生門』と『蜘蛛の糸』と『鼻』と『芋粥』と四つの作品で、「エゴイズム」の内実を究めた。

その結果、この四つの主人公には、二つエゴイズムを見られる。一つは利己主義で、もう一つは傍観者の利己主義である。

『羅生門』と『蜘蛛の糸』での中に、現われたエゴイズムは利己主義であったのに対して、『鼻』と『芋粥』での中に、現われたエゴイズムは傍観者の利己主義である。

さらに、第二章では、利己主義と傍観者の利己主義について究明した。

『羅生門』の中で、下人が老婆の言葉から悪への動力をもらって、盗人になったことにより、自分の生存のために、エゴイズムをして生きられることが明白した。

一方、『蜘蛛の糸』の主人公键陀多は自分の生存だけを考えたせいで、却って地獄へ返った。

そのゆえに、この二つの対照的な結果から見ると、エゴイズムは人間が生きるために、必要なことだと同時に、エゴイズムも他人を滅ぼすばかりでなく、自分も破滅される可能性があることが読み取れる。

そして、『鼻』と『芋粥』との主人公内供と五位はいつも、周囲の人に嘲笑された人である。内供は自分の外貌で他人に自尊心を傷けられてたので、色々な方法を試みた後、つい傍観者の利己主義に落ち込んだ。

しかし、内供は最後、他人の目から解放して、自分の価値を新しく生まれた。皆に迎えたために、振り回された悲惨な経験があって、やっと、新たな生き方を捜し出した内供に対して、五位は他人の嘲笑や悪戯にずっと平気な態度で面した。

しかし、五位は芋粥を飽けるために、返って傍観者の利己主義に巻き込まれた。

なぜかというと、五位は夢を完成したのに、自分の意志でも失ってきたからである。だから、この点から、傍観者のエゴイズムは確かに卑劣だが、やはり自分の意志に従って抵抗できることが明らかである。

最後、第三章では、芥川龍之介自身の人生とエゴイズムと作品との関連を捜し出した。その結果、芥川龍之介の恋愛経験により、エゴイズムを深く感じたことが分かった。だから、芥川龍之介が身を持って感じたエゴイズムを作品の主題としたことが明瞭した。本論文、「芥川龍之介の歴史小説におけるエゴイズム」を通じて考察した結果から、人性のエゴイズムは人間の生まれた天性だと思われる。
さて、外国文学からの影響と、古典文学からの文学素養と、新文体の成熟を加えて、芥川龍之介の文学で見事に完成られたために、芥川龍之介が、大正文学を代表する作家だということもある。だから、芥川龍之介は大正時期、日本文学での重要な作家だと言えよう。その上に、芥川龍之介の作品を支配された「エゴイズム」は芥川文学を論ずなけらばならない一つの観点だと思われる。というのは、『羅生門』から『芋粥』にかけて、エゴイズムを焦点として見れば、芥川文学の歴史物語での一つの側面を窺えるからである。そこで、芥川龍之介の作品における「エゴイズム」を明らかにする本研究はそれなりの価値があると考えられる。そして、この研究した結果を通じて、芥川文学の深奥を台湾の人々に紹介したいと思っている。今後、本研究の成果を生かして、今回、研究内容に入れなかった後期の歴史小説との比較を研究課題としたい。

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