第二章芥川龍之介の歴史小説におけるエゴイズムの特徴

第二節傍観者の利己主義
 ここで、「傍観者の利己主義」を中心に論じている。傍観者の利己主義というものは確かに、微妙なものだと言える。『鼻』の主人公-禅智内供は異様に長い鼻があるのに対して、『芋粥』の主人公-五位はいつも、周囲から軽視を受けている。この二人主人公の共通点は皆の嘲笑な対象となっていることで共通している。『鼻』の内供の心理変化を次のように表(一)にまとめて見よう。

表(一)内供の心理変化
第一点鼻を粥の中へ落ちした話は、當時京都まで喧傳された。-けれどもこれは内供にとつて、決して鼻を苦に病んだ重な理由ではない。内供は實にこの鼻によつて傷けられる自尊心の為に苦しんだのである。(P59-60)
第二点內供は、自分が僧である為に、幾分でもこの鼻に煩される事が少なくなつたとは思つてゐない。內供の自尊心は、妻帯と云ふやうな結果的事実に左右される為には、餘りにデリケイトに出来てゐたのである。そこで內供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損をは恢復しようと試みた。(P60)
第三点內供は、いつものやうに、鼻などは氣にかけないと云ふ風をして、(中略)内心では勿論弟子の僧が、自分を説伏せて、この法を試みさせるのを待つてゐたのである。弟子の僧にも、內供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに對する反感よりは、內供のさう云ふ策略をとる心もちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かしたのであらう。弟子の僧は、內供の豫期通り、口を極めて、この法を試みる事を勸め出した。さいして、內供自身も亦、その豫期通り、結局この熱心な勸告に聽從する事になつた。(P61-62)
第四点しかし、その日はまだ一日、鼻が又長くなりはしないかと云ふ不安があつた。(中略)それから一晚寝てあくる日早く眼がさめると內供は先、第一に、自分の鼻を
第四点撫でて見た。鼻は依然として短い。內供はそこで、幾年にもなく、法華經書寫の功を積んだ時のやうな、のびのびした氣分になつた。(P64)
第五点池の尾の寺を訪れた侍が、前よりも一層可笑しさうな顔をして、話も碌々せずに、ぢろぢろ內供の鼻ばかり眺めてゐた事である。(中略)用を云ふつかつた下法師たちが、面と向つてゐる間だけは、慎んで聞いてゐても、內供が後さへ向けば、すぐにくすくす笑ひ出したのは、一度や二度の事ではない。(P64)
第六点人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出來ると今度はこつちで何となく物足りないやうな心もちがする。少し誇張して云へば、もう一度その人を、同じ不幸に陷れて見たいやうな氣にさへなる。さいして何時の間にか消極的ではあるが、或敵意をその人に對して抱くやうな事になる。--內供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思つたのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍觀者の利己主義をそれとなく感づいたからに外ならない。(P65)
第七点そこで內供は日毎に機嫌が悪くなつた。二言目には、誰でも意地悪く叱りつける。(中略)殊に內供を忿らせたのは、例の惡戲な中如童子である。或日、けたたましく犬の吠える聲がするので、內供が何気なく外へ出て見ると、中童子は、二尺ばかりの木の片をふりまはして、毛の長い、瘦せた尨犬を逐ひまはしてゐる。それも唯、逐ひまはしてゐるのではない。內供は、中童子の手からその木の片をひつたくつて、したかその顔を打つた。木の片は以前の鼻持上げの木だつたのである。內供はなまじひに、鼻の短くなつたのが、反て恨めしくなつた。(P65-66)
第八点殆、忘れようとしてゐた或感覺が、再內供に歸つて來たのはこの時である。內供は慌て鼻へ手をやつた。手にさはるものは、昨夜の短い鼻ではない。(中略)內供は鼻が一夜の中に、又元の通り長くなつたのを知つた。さうしてそれと同時に、鼻が短くなつたと同じやうな、はればれした心もちが、どこからともなく歸
第八点つて來るのを感じた。--かうなれば、もう誰も哂ふものはないにちがひない。內供は心の中でかう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。

 第一点と第二点は內供が長い鼻に悩んだ原因であることが明白になる。異様に長い鼻があったのは確かに生活に色々な不便をもらした。しかし、内供が困ったものはこの生活にの不便と外貌の醜悪ではなく、噂や別人からの眼光に傷けられた自尊心である。それから、内供の矛盾について説明した。内供は長い時間に佛に仕えて、自分の外貌の欠点に面して、外人からの噂を捨てるはずであるが、高僧とした内供は反って、別人の話に、気にしていた。だから、この点から、高僧になっても、人間の生まれた人性があるとわかる。すなわち、人間が皆からの噂や眼光を恐れている。それで、内供が消極的にも、積極的にも、色々な仕方を試みたい気持ちも同感する。
 第三点は内供が鼻を短くしたいが、良い仕方を聞いても、平気な振りをした。弟子から自分を勧める態度をした様子を歯切れよく描写した。読者もここで、内供が俗な、貧乏な心理状態と精神態度が見出せる。すなわち、弟子の「熱心な勸告に聽從する事」に似た態度をした事から見ると、内供が微かな自尊心を守りたい気持ちと、とても試みたい心情を隠す気持ちがよく分ってきた。第四点は漸く、鼻を短くした内供の心情を述べている。毎朝、起きた時、鼻が又、長くなった恐れを除いて、鼻が短い内供は毎日、のびのびした気持ちで、日を渡った。こんな内供は経を読んだりしても、お久しぶりの安心を得た。しかし、こののびのびした日は内供が意外な事実を発見してから、終わった。
 第五点は内供が気が付いた意外な事である。池の尾の寺を訪れた侍や、內供の鼻を粥の中へ落した事のある中童子や、用をいいつかつた下法師たちなど、皆も一層可笑しい態度で、内供を見た。「今はむげにいやしくなりさかれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」と思った内供は皆の態度がよく分らなくなった。ここに、『鼻』の主題がある。「傍観者の利己主義」というものが皆の内供への態度に現れている。それは、「少し誇張して云へば、もう一度その人を、同じ不幸に陷れて見たいやうな氣にさへなる」のことである。だから、内供は鼻が短くしてから、のんびりした気持ちを失っていた。その代りに、毎日、機嫌を悪くしている。そうして、第七点の後で、内供はもっと短く鼻を恨んだ。その時の内供はもし、機会があれば、反って、元の長い鼻がほしがっている。ある夜、内供はなんか鼻がおかしい感じをする時、内供も平気でその感じをかまわない。翌朝、内供は平日の通りに起きた時、突然、殆ど忘れような感じをした。内供は自分の鼻に触れると、昔のように、異様な長い鼻が又顔に掛かっていた。内供はこの事実に、残念な気持ちがない。かえって「かうなれば、もう誰も哂ふものはないにちがひない」という気持ちで面した。上記の内容から、内供は自分の鼻は如何な様子で顔に掛かる問題がもう気にしなくなった事を読み出すことができる。すなわち、内供はもう外人の眼光をかまわなくなった。なぜかというと、昔の内供はいつも、別人の意見にあまり気にするために、自分が迷った。皆の目に振り回された。しかし、一旦鼻が長いとか、鼻が短いとか、どの情況にしても、皆の意に合えない事実を発見した内供も鼻の問題を構わなくなったからである。だから、「寺内の銀杏や橡が一晩の中に葉を落した庭は黃金を敷いたように明い。未だ、薄い朝日にの九輪がまぶしく、光っている」とは、他人の嘲笑から生じた新しい内供の考えを説明している。いつも、周囲の人々の目の下に生活した内供は「傍観者の利己主義」に深く傷付けられたと言える。しかも、読者にとって、生きている例だと思われる。
 それから、『芋粥』を見よう。『芋粥』の主人公五位はいつも、皆からの軽視を受けている。五位の心理過程は表(二)をまとめて見よう。

表(二)五位の心理過程
第一点五位は風采の甚揚らない男であつた。第一背が低い。それから赤鼻で、目尻が下がつてゐる。口髭は勿論薄い。頬が、こけているから、顎が、人並はづれて、細く見える。唇は-一一、数へ立ててゐれば、際限はない。我五位の外貌はそれ程、非凡に、だらしなく、出来上がつてゐたのである。(P18)

第二点侍所にゐる連中は、五位に対して、殆と蝿程の注意も払はない。有位無位、併せて二十人に近い下役さへ、彼の出入りには、不思議な位、冷淡を極めてゐる。五位が何か云ひつけても、決して彼等同志の雑談をやめた事はない。彼等にとつては、空気の存在が見えないやうに、五位の存在も、目を遮らないのであらう。(P19)
第三点それでも、五位は、腹を立てた事がない。彼は、一切の不正を、不正として感じないほど、意気地のない、臆病な人間だつたのである。(中略)五位はこれらの揶揄に対して、全然無感覚であつた。少くもわき眼には、無感覚であるらしく思はれた。彼は何を云はれても、顔の色さへ変へた事がない。(P19-20)
第四点この時だけは相手が子供だと云ふので、幾分か勇気が出た。そこで出来るだけ、笑顔をつくりながら、年かさらしい子供の肩を叩いて、「もう、堪忍してやりなされ。犬も打たれば、痛いでのう」と声をかけた。すると、その子供はふりかへりながら、上眼を使つて、蔑すむやうに、ぢろぢろ五位の姿を見た。云は侍所の別当が用の通じない時に、この男を見るやうな顔をして、見たのである。「いらぬ世話はやかれたうもない」その子供は一足下りながら、高慢な脣を反らせて、かう云つた。「何ぢや、この赤鼻めが。」五位はこの語が自分の顔を打つたやうに感じた。(P22)
第五点始終、いぢめられてゐる犬は、たまに肉を貰つても容易によりつかない。五位は、例の笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、利仁の顔と、空の椀とを等分に見比べてゐた。「おいやかな」「、、、、、、」「どうぢや」「、、、、、、」(中略)答へ方一つで、又、一同の嘲弄を、受けなければならない。或は、どう答へても、結局、莫迦にされさうな気さへする。彼は躊躇した。もし、その時に、相手が、少し面倒臭さうな声で、(中略)彼は、それを聞くと、慌しく答へた。「いや、、、、忝うござる」この問答を聞いてゐた者は、皆、一時に、失笑した。「いや、、、、忝うござる」-かう云つて、五位の答を、真似る者さへある。(P24-25)
第六点「それは又、滅相な、東山ぢやと心得れば、山科。山科ぢやと心得れば、三井寺。揚句を越前の敦賀とは、一体どうしたと云ふ事でござる。始めから、仰せられうなら、下人共なりと、召つれようものを。-敦賀とは、滅相な。」五位は、殆どべそを掻かないばかりになつて、呟いた。もし「芋粥に飽かむ」事が、彼の勇気を鼓舞しなかつたとしたら、彼は恐らく、そこから別れて、京都へ独り帰つて来た事であらう。(P28)
第七点五位は、ナイイヴな尊敬と讃嘆とを洩らしながら、この狐さへ頤使する野育ちの武人の顔を、今更のやうに、仰いで見た。自分と利仁との間に、どれ程の懸隔があるか、そんな事は、考へる暇がない。唯、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由が利くやうになつた事を、心強く感じるだけである。-阿諛は、恐らく、かう云う時に、最自然に生まれて来るものであらう。読者は、今後、赤鼻の五位の態度に、幇間のやうな何物かを見出しても、それだけで妄にこの男の人格を、疑ふ可きではない。(P30)
第八点「何とも驚き入る外は、ござらぬのう」五位は、赤鼻を掻きながら、ちよいと、頭を下げて、それから、わざとらしく、呆れたやうに、口を開いて見せた。口髭には今、飲んだ酒が、滴になつて、くつついてゐる。(P33)
第九点我五位の心には、何となく釣合のとれない不安があつた。第一、時間のたつて行くのが、待遠い。そかもそれと同時に、やるの明けると云ふ事が、-芋粥を食ふ時になると云ふ事が、さう早く、来てはならないやうな心もちがする。さうして又、この矛盾した二つの感情が、互に剋し合ふ後には、境遇の急激な変化から来る、落着かない気分が、今日の天気のやうに、うすら寒く控へてゐる。(P34)
第十点どうもかう容易に「芋粥に飽かむ」事が、事実となつて現れては、折角今まで、何年となく、辛抱して待つてゐたのが、如何にも、無駄な骨折のやうに、見えてしまふ。出来る事なら、何か突然故障が起つて一旦、芋粥が飲めなくなつてから、
第十点又、その故障がなくなつて、今度は、やつとこれにありつけると云ふやうな、そんな手続きに、万事を運ばせたい。(P34-35)
第十一点さいして、自分が、その芋粥を食ふ為に京都から、わざわざ越前の敦賀まで旅をして来た事を考へた。考へれば考へる程、何一つ、情無くならないものはない。我五位の同情すべき食欲は、実に、此時もう、一半を減却してしまつたのである。(中略)これを、目のあたりに見た彼が、今、提に入れた芋粥に対した時、まだ、口をつけない中から、既に、満腹を感じたのは、恐らく、無理もない次第であらう。-五位は提を前にして、間の悪さうに、額の汗を拭いた。(P36)
第十二点「芋粥に飽かれた事が、ござらぬげな。どうぞ、遠慮なく召上つて下され。」(中略)「父も、さう申すぢやて。平に、遠慮は御無用ぢや」利仁の側から、新な提をすめて、意地悪く笑ひながらこん事を云ふ。弱つたのは五位である。遠慮のない所を云へば、始めから芋粥は、一椀も吸ひたくない。(P36-37)
第十三点利仁の命令は、言下に行はれた。軒からとび下りた狐は、直に広庭で芋粥の馳走に、与つたのである。五位は、芋粥を飲んでゐる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返つた。それは、多くの侍たちに愚弄されてゐる彼である。京童にさへ「何ぢや。この赤鼻めが、」と、罵られてゐる彼である。色のさめた水干に指貫をつけて、飼主のない尨犬のやうに、朱雀大路をうろついて歩く、憐む可き、孤独な彼である。しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云ふ欲望を、唯一人大事に守つてゐた幸福な彼である。-彼は、この上芋粥を飲まずにすむと云ふ安心と共に、満面の汗が次第に、鼻の先から、乾いてゆくのを感じた。(P38)

 第一点からは、五位の外貌を述べている。「背が低い。それから赤鼻」など、それに、「余程以前から、同じやうな色の褪めた水干に、同じやうな萎した烏帽子をかけて」いる描写から、五位がとても貧乏な外貌とみすぼらしい様子が思える。だから、連中が五位に対して「殆と蝿程の注意も払はない」ほど、「空気の存在が見えない」ように、「目を遮らない」ことも想像できる。それから、第三点は五位がこれらの不公平な待遇を受ける反応である。五位は周囲の人々からの軽蔑されても、やはり平気でいる。「一切の不正を、不正として感じない」ほど、すこしも怒ってもいない。もし、同僚の悪戯がひどすぎるなら、五位は「笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔」で、「いけむぬのう、お身たちは」と言っただけである。そこで、五位は臆病な、意気地がない人だが分かる。
 ある日、五位は道で子供たちが犬を虐めた事を見た。たぶん、相手は子供だと思ったから、五位はこの犬に同情を寄せていて、口を開けた。「もう、堪忍してやりなされ。犬も打たれば、痛いでのう」と言ったが、子供の反応は第四点である。子供たちが「いらぬ世話はやかれたうもない」を話そうな目で、五位に「何ぢや、この赤鼻めが」と言った。この話を聞いた五位は怒るこtおなく、「自分の顔を打つた」を感じて、「恥をかいた」と思って、「きまりが悪いのを苦しい笑顔に隠し」ながら、黙って離れた。このように、五位がとても弱い人である。しかし、そんな臆病な五位はある夢を持っている。これは芋粥に飽けることである。
ある日、五位はいつもの通り、外の仕達と一緒に、残肴を食べている。喉を潤すくらい程度の芋粥を飲んだ五位は自分に「何時になつたら、これを飽ける事かのう」と言った。五位が呟いた言葉を聞いた利仁は五位に「お望みなら、利仁がお飽かせ申さう」という請求を提出した。それから、第五点は五位がこの話を聞いてからの反応である。「始終、いぢめられてゐる犬は、たまに肉を貰つても容易によりつかない」ように、五位は「例の笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔」で、この問題を考えている。利仁の提出に面した五位はやっと芋粥への欲に敵わないから、利仁と一緒に行った。しかし、利仁と行った五位は敦賀へ行かなければならないのを聞いた後で、第六点のことを話した。「それは又、滅相な、東山ぢやと心得れば、山科。山科ぢやと心得れば、三井寺。揚句を越前の敦賀とは、一体どうしたと云ふ事でござる。始めから、仰せられうなら、下人共なりと、召つれようものを。-敦賀とは、滅相な」と言った五位は口で呟いた。実は、この内容から、五位が芋粥を食べるために、京都から離れた勇気は「芋粥を飽きたい」の希望から生じたことが分ってきた。しかも、「芋粥」は五位に対して、とても大切なものだと見える。その時、ある不思議なことが生じた。「あれに、よい使者が参つた。敦賀への言づけを申さう」と言った利仁は、狐に客があるので、どんな用意をするかなどの話をした。この話を聞いた五位は口が閉じられないように、狐に言い付けた利仁を神様のように尊敬し始めた。そのために、五位の心で、利仁が自分と違って、大きな差別があるのは勿論なことだと信じてきた。その点から、五位もだんだん利仁に控えられたことが明白になる。だから、「それは、又、稀有な事でござるのう」や「何とも驚き入る外は、ござらぬのう」を言った五位の馬鹿な様子を想像にかたくない。
そうすると、やっと敦賀に着いた五位は京都から遠い道を急いだのに、芋粥があまり食べたくなくなった。この点についての説明は第九点と第十点である。「どうもかう容易に「芋粥に飽かむ」事が、事実となつて現れては、折角今まで、何年となく、辛抱して待つてゐたのが、如何にも、無駄な骨折のやうに、見えてしまふ。出来る事なら、何か突然故障が起つて一旦、芋粥が飲めなくなつてから、又、その故障がなくなつて、今度は、やつとこれにありつけると云ふやうな、そんな手続きに、万事を運ばせたい」とそのものは五位の考え方である。その思い方を持っている五位は一杯な芋粥に面して、もう「芋粥を飽きる」欲が全然出せない。しかし、利仁が以下の話を言った。「父も、さう申すぢやて。平に、遠慮は御無用ぢや」と「これは又、御少食な事ぢや。客人は、遠慮をされると見えたぞ。それそれその方ども、何を致して居る」と言った利仁は意地悪くそう話した。口髭にも、鼻の先にも、冬とは思はれない程、汗が玉になって垂れている五位は一層に、弱く見えそうである。
上記の内容から、「遠慮のない所を云へば、始めから芋粥は、一椀も吸ひたくない」と思った五位はもう自分の意識で自分の欲を選ぶ権利がなくなったことを読み取ることができる。最後に、第十三点を見よう。利仁の命令により、狐は芋粥を飲み始めた。五位も皆の注意が自分から狐へ向けたので、芋粥を食べれない。五位はその狐を見た時、昔の自分を思い出した。以前の五位は皆の嘲笑を受けても、夢があるから、苦しくないという感じである。一方、芋粥の夢を追求する同時に、自分の価値も捨てられた。この点は『鼻』の内供と同じだと思われる。なぜというと、内供も周囲の人々の意見を迎えたいので、自分の価値をだんだん失ってきたからである。それに、五位は自分の夢を追ったが、その夢は想像の通りに美しくないと気が付いた。それに対して、内供は様々な仕方を試みた最後、漸く短くした鼻を反って怨んできた。こうしたことから窺えるように、内供と五位とは二人も自分の願いが叶った後で、元の夢に失望した。この点について、吉田精一は「例によつて新奇で滑稽なもとの話を一方では忠実に辿りながら、その裏に人生に於ける理想なりは、達せられない内に価値があるので、それが達せられた時には、理想が理想でなくなつてしまひ、却つて幻滅を感じるばからだといふ、人生批評を寓したのである 」と言っている。
そうして、内供は夢の破滅に面して、傍観者の嘲笑から成長しつつあった最後、自分の価値を漸く捜し出した。一方、五位はやはり、皆の嘲笑に生活している。だから、「庭は黃金を敷いたやうに明い。(中略)九輪がまばゆく光つて」いる事と「笑ふのか、泣くのか、わからないやうな顔」をした事のどちらかを選ぶ権利は実は、やはり自分にあるのではないか。

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