第二章芥川龍之介の歴史小説におけるエゴイズムの特徴

第一節 自分自身のエゴイズム
 芥川龍之介の作品は、従来、人性の醜悪を中心に論じている。特に、人間が自身の生存についての時、自然に表させるエゴイズムである。ここで、『羅生門』と『蜘蛛の糸』との二つ作品の中でのエゴイズムをまとめる。まず、『羅生門』の下人の心理変化を表(一)にまとめて見よう。
表(一)下人の心理変化
第一点選ばないとすれば—–––下人の考へは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やつとこの局所へ逢着した。(中略)その後に來る可き「盜人になるより外には仕方がない」と云ふ事を、積極的に肯定する丈の、勇氣が出ずにゐたのである。(P52)
第二点その髪の毛が、一本づ拔けるのに從つて、下人の心からは、恐怖が少しづ消えて行つた。さうして、それと同時に、この老婆に對するはげしい憎惡が、少しづ動いて來た。─いや、この老婆に對すると云つては、語弊があるかも知れない。寧、あらゆる惡に對する反感が、一分每に強さを増して來たのである。(P54)
第三点この時、誰かがこの下人に、さつき門の下でこの男が考えてゐた、饑死をするか盗人になるかと云ふ問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であらう。(P54)
第四点成程な、死人の髮の毛を拔くと云う事は、何ぼう惡い事かもしれぬ。ぢやが、こにゐる死人どもは、皆、その位な事を、されてもい人間ばかりだぞよ。(中略)これとてもやはりせねば、飢死をするぢやて、仕方がなくする事ぢやわいの。(中略)その仕方がない事をよく知つていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。(P56)
第五点しかし、之を聞いてゐる中に、下人の心には、或勇気が生まれて來た。それは、さつき門の下で、この男には缺けてゐた勇氣である。さうして、又さつきこの門の上へ上つて、この老婆を捕へた時の勇氣とは、全然、反對な方向に動かうとする勇氣である。下人は、饑死をする盜人になるかに、迷はなかつたばかりではない。その時のこの男の心もちから云へば、饑死などと云ふ事は、殆、考へる事さへ出来ない程、意識の外に追ひ出されてゐた。(P57)

 第一点から見れば、生活を支える方法を失った下人は、自分の未来を考えていたことがわかる。いくら考えても、最後、まとめた結果に面している下人はこの思い方があっても、勇気が出できない。下人が勇気が出されない原因はたぶん道徳を縛り付けたと思われる。
それから、第二点と第三点を見よう。その時、下人は老婆に会った。死人の髪を抜いた老婆を見た下人は自然に憎悪感が湧いてきた。それにも関わらず、この情景を見た後で、下人の内心で、前の時、「盗人になろう」とその考えも一瞬間に消えてしまった。それに代わりに、下人は思わず「飢死」を選んだその感情は人間として生まれつきの正義感だと言える。
しかし、下人は老婆のもっともらしい理屈を聞いた後、やはり、老婆の言い方に押し付けられた。第四点は老婆の見方である。老婆が死人の髪を抜いた事は確かに、悪い事だが、「これとてもやはりせねば、飢死をするぢやて、仕方がなくする事ぢやわいの」というもっともらしい、有力な言い訳で下人を説得した。その話を聞いた下人は自分の考え方を守り切れなくなり、反って、老婆の理由に賛成して、「飢死」と「盗人」との間に、「盗人」を堂々に選んだ。この点について、勝倉壽一は以下のように説明している。

   過去の道理·習慣の束縛から脱し得ていない下人の側であり、老婆の言辞に「許し」と読み得る契機が存在したとしても、それは自己の生死を支配している下人の安直なモラルを満足せしめる計算にに立つものでしかない。老婆の論理の陥Ωに落ちて、老婆の論理を奪い取った自己満足と、「許される」という自覚を得たとき、彼は決定的に「黒洞々たる夜」を宰領する老婆の支配下に落ちたのである。

 この文から、下人の心理変化が明らかに見える。ここで、下人は老婆から悪へと動き出す力をもらって、盗人になった事が明白になった。実は、下人は心で自分の将来に関しての生存手段をもう探し出した。しかし、この道徳に違反する行為ができない。そんなに彷徨している下人は「これとてもやはりせねば、飢死をするぢやて、仕方がなくする事ぢやわいの」と言った老婆に会った後で、老婆の言葉に引き出された。もし、下人が老婆が死人の髪を抜いた動作を見た後、自然に、心から「あらゆる惡に對する反感が、一分每に強さを増して來た」ものは人間の生まれた「善」だということに対して、すぐ、老婆の言い訳に従って、老婆の論説から「許す」ような、「正当な理由を得た」ような、自分の立場が間もなく変ったのは人間の生まれた「悪」である。なぜかと言うと、これは、下人は「何の未練もなく、饑死を選んだ事」との正義感をよく持たれないで、過去の道徳を守れないで、盗人になった証拠だからである。その後の生活に密切な関わりがあるので、一瞬に迷っても、生存のために、悪の事をするのは「仕方がない」ものだという利己主義、エゴイズムに巻き込まれた。だから、下人の反応を見たら、エゴイズムは人間の生まれた本能だと見出すことが出来る。それから、『蜘蛛の糸』を見よう。『蜘蛛の糸』の主人公は键陀多である。键陀多は悪の事をした悪人である。そこで、键陀多が死んでから、地獄へ落ちた。次に键陀多が地獄から脱出した過程を表(二)を以下に示そう。

表(二)键陀多が地獄から出る過程
第一点この键陀多と云ふ男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥棒でございますが、(中略)小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這つて

第一点行くのが見えました。そこで键陀多は早速足を挙げて、踏み殺さうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違ひない。その命を無闇にとると云ふ事は、いくら何でも可哀さうだ。」と、かう急に思ひ返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやつたからでございます。(P109)
第二点遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるやうに、一すぢ細く光りながち、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。键陀多はこれを見ると、思はず手を拍つて喜びました。この糸に縋りついて、どこまでものぼつて行けば、きつと地獄から抜け出せるのに相違ございません。(P110-111)
第三点所がふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方所には、数限もない罪人たちが、自分ののぼつた後をつけて、まるで蟻の行列のやうぬ、やはり上へ上へ一心によぢのぼつて来るではございませんか。(P111)
第四点自分一人でさへ斬れさうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪へる事が出来ませう。もし万一途中で断れたと致しましたら、折角ここへまでのぼつて来たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落しに落ちてしまはなければなりません。(中略)今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまふのに違ひありません。(P111)
第五点そこで键陀多は大きな声を出して、と喚きました。その途端でございます。今まで何ともまかつた蜘蛛の糸が、急に键陀多のぶら下つてゐる所から、ぶつりと音を立てて断れました。ですから、键陀多もたまりません。あつと云ふ間もなく風を切つて、独楽のやうにくるくるまはりながら、見る見る中に暗の底へ、まつさかさまに落ちてしまひました。(P112)

 第一点から見て、键陀多は一切の悪の事をした大悪人だと分かった。しかし、人を殺したり、家に火をつけたりしたことはもちろん、小さいな蜘蛛を殺した時、反って、「蜘蛛は小さいな蜘蛛だが、生存の権利があった」という道理を思い出した。この点から、どんなに残酷な人でも、少し慈悲心がある。すなわち、人間として、心の中に微かな「良いもの」がきっとある。『羅生門』の下人が老婆が死人の髪を抜いた情況を見てから、湧いた悪に対する反感という道理と同様に、、『蜘蛛の糸』の键陀多は人間の生まれた「善」という慈悲心を持っている。
そうして、键陀多もこの珍しい慈悲心のおかげに、地獄から脱した機会をもらった。この銀色の蜘蛛の糸を見たばかり、键陀多が頭に浮んだ思いはこの糸に沿って、地獄を脱走できることである。だから、糸を掴んでいる键陀多は地獄から逃げる途中に、ふっと自分の下に、罪人達もこの蜘蛛の糸を登ってきでる情景を見た。それを見た键陀多はすぐ、蜘蛛の糸がそんな細いのに、いっぱいの人が上ったら、この糸はきっと切れるに違いないと感じた。「もし万一途中で断れたと致しましたら、折角ここへまでのぼつて来たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落しに落ちてしまはなければなりません」ということを思うと、思わずに、声をかけた。「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼつて来た。下りろ。おりろ」と言った。そして、話を言い終ると、蜘蛛の糸が断れた。键陀多は又、地獄へ返った。键陀多は蜘蛛の糸が切れる恐れがあると思って、口から「下りろ」と言ったが、蜘蛛の糸は反って、键陀多の話のために断れた。だから、蜘蛛の糸はお釈迦様から键陀多への試験だと言えるかもしれない。しかし、この試験は键陀多にとって、あまり厳しすぎる。人々がそんな細い蜘蛛の糸を上っていて、誰にも、この状況を見ると、糸が切れる恐れがあると感じでいる。況して、键陀多もこの糸を掴んでいる。そのために、键陀多がまず、自分のことだけを考えるという反応を示した。键陀多の反応により、人間としての自分自身のエゴイズムの証拠だと見られる。键陀多の反応が『羅生門』の下人が老婆の論点を聞いた後、すぐ、巻き込まれた道理と同様に、自分の生存こそ一番大切なものである。自分の生存に関して、「これをしなければ、生けないから、これは仕方がないことだ」という訳で、悪の道へ歩いても、醜悪の事をしても構わない。だから、键陀多の口から脱した「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼつて来た。下りろ。おりろ」と言った話は一番人間のエゴイズムが代表できるものではないか。

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