一.研究動機
黒澤明のおかげで、映画化とされた芥川龍之介の作品『羅生門』が一層知られるようになった。そして、日常生活中、結果もない、答えもない、謎のような事件を「羅生門」と自然に言われている。専門学校の時、初めて芥川龍之介の作品『羅生門』を読んだ。あの時の私は、その中の複雑な人間の情けがあまりよくわからなかった。そして、大学の授業で『鼻』を勉強した時、その中に描いた人間の自利が印象的であった。それから引き継いで、芥川龍之介の作品『地獄変』を読んだ。作品中の情景描写、物語の語る手法、特に人間の醜悪な生まれつき、諧謔を含んだ軽妙な筆致はとても印象的だった。さらに、これらの作品のいずれは『今昔物語』、『源平盛物語』、『平家物語』などの日本の古典文学によったもので、いわゆる歴史小説だということを知った私はますます芥川の創作した動機及び歴史小説に現しているエゴイズムに興味を持つようになった。したがって、「芥川龍之介の歴史小説におけるエゴイズム」をテーマにし、卒業論文を書くことにしたのである。

二.先行研究
芥川龍之介の歴史小説を論ずるなら、『今昔物語』などの日本の古典文学から材料を採ったことを無視してはならない。この点について伊豆利彦は次のように論じている。

芥川における精神的な革命、新しい芸術への開眼は、生命の発見であり、人間の発見であった。芥川は固定的な善悪の観念にとらえられ、その対立葛藤に悩んでいた。この善悪を超えた激しい生命の燃焼に、芥川は人間を発見し、芸術を発見した。芥川が『今昔物語』の世界に感動し、そこに自分自身の現代的な文学の主題を見出すようになったのは、この精神的な革命と密接不可分である。(中略)古代といい、平安といい、王朝といえば、いたすら『源氏物語』に見られるような優美な宮廷の世界をのみ思いうかべる一般的な風潮に対して、芥川は『今昔物語』を埋もれた古典の世界から掘り出して、そこに現世の内なる「修羅、餓鬼、畜生の世界」をざまざまと見た。そしてそこになまなましい「野性の美」を見出し、「人間喜劇」を見た。当時は未だ一般には『今昔物語』はそれほど高い文学的評価を与えられていなかった。芥川における『今昔』の発見はそれだけ大きな意味を持っていたということが出来る。

この論述によると、芥川の「歴史小説」は大きく価評されていることが窺える。次に、
『今昔物語』について、芥川がどう考えているかを見よう。伊豆利彦は次のように説明し
ている。

芥川はまた『今昔』の写生的筆致について述べ、それは当時の人々の精神的争闘をもやはり鮮やかに描き出していると指摘した。「彼等もやはり僕等のやうに娑婆苦の為に呻吟した」のであり、『今昔』は「最も野蛮に、-或いは殆ど残酷に彼等の苦しみを写してゐる」と述べている。

上述したように、『今昔物語』の中に社会の底の暗い間の中にうごめいていて、生まれ
ついていた人間の醜悪さを掘り出した芥川の姿勢が見られる。それから、『今昔物語』に
おける「エゴイズム」に対して、芥川が感動した原因を、伊豆利彦では次のように分析し
ている。

芥川は支配権力による民衆支配の道具としての宗教、道徳、思想を、いつわりのものとして強く排撃する。それは人間てき生命を抑圧し、人間の醜悪を隠蔽し、偽善と虚飾を強制するである。芥川はそれからの解放を痛切に求めていた。平安末期、『今昔』の世界が芥川にとって魅力ある時代であったのはこのためである。たしかにそれは暗黒の時代であった。無法の時代であり、無明の時代であった。しかしこの暗黒の内部において、社会秩序の枠の中で窒息し、宗教、道徳の権威によっておしゆがめられた人間性が、新しい息吹きをもってよみがえり、赤裸々な自己を主張して躍動する。それはまさしく、「現状からかけ離れた愉快な」時代であった。

上の論述から、『今昔物語』を読んだ芥川が感動した原因が人性の反発にあることが明白である。そして、芥川が人間のエゴイズムを深刻的に体験して、作品を完成したことについて、芥川は『あの頃の自分の事』の中で、「自分は半年前から悪くこだはつた恋愛問題の影響で、独りになる気が沈んだから、その反対になる可く現状と懸け離れた、なる可く愉快な小説が書きたかった。そこでとりあへず先、今昔物語から材料を取って、この二つの小説(『羅生門』と『鼻』)を書いた」 と説明している。これを見れば、芥川が人間のエゴイズムを作品の主題として、創作したのは、自分の体験によったことが明白になる。そして、伊豆利彦は芥川が悪い人柄を掘り出した原因を次のように解釈している。

芥川は暗黒そのもの、人間が醜悪なエゴイズムを露出して生きるとそのことを肯定し、讃美したのではない。ブルジョア的俗物主義の社会的外面的な道徳や宗教が、人間的生命を疎外して、自己=人間の醜悪さを隠蔽し、偽善と虚飾を誇示することに反発し、真実の人間的生存と救済を求めたのである。

上の引用によると、芥川が自分の醜悪をまともに正視すればこそ、新しい人格が生まれることと思ったことが明瞭になる。「自分の醜悪を隠蔽し、自己を合理化し道徳化するものは、現状を肯定し、虚偽の中に生き継ぐけるものである。芥川は自己の醜悪を露出して生き、それはによって傷つくものにこそ、新しい人間よみがえりの可能性を見た」 と言った伊豆の主張は、確かに示唆的で、新たな観念だと言えよう。伊豆利彦はこの論点に関して、以下のように論じている。

生活の手段をうしなうことによって、この青年は道徳的思想的基盤をうしない、暗い巷をあてもなくさまよっているのである。彼は新しい世界へつき出すのは、老婆の、人間は誰でも醜悪なもので、こうしなければ餓え死にするしかないのだという言葉だった。下人はこの老婆の言葉に説得されたから、老婆をつき倒し、引きはいだのではい。老婆に対する半発が彼を前へ突き出したのである。そうでなければ老婆に暴力をふるうことはしなかったであろう。なるほど老婆の言葉はもっともな理屈であった。しかしそのもっともらしい、したり顔の理屈を下人は憎んだ。老婆が自分を合理化するもっともらしい論理で、自分自身がつき倒され、おしつけられ、引きはがれる所に作者の感じた痛快さがある。

上の引用文から、芥川龍之介が新しい領域を開拓して表現した人の心に隠れていた醜悪さがありありと見られる。
以上の論点を再びまとめてみると、次のようである。芥川が『今昔物語』から材料を採って小説を書くまでは、日本の古典文学の世界は優美なものだと思われがちであるが、そうした中で「エゴイズム」という人間の生まれつきの醜悪を芥川が重要な主題とし、書き出した芥川の歴史小説は確かに特異に見える。エゴイズムが一体どのように芥川文学、特に彼の歴史小説に表現されているかは、研究に価する課題だと思って、芥川龍之介の「歴史小説におけるエゴイズム」をテーマにしたのである。

三.研究内容及び方法
本論文は「芥川龍之介の歴史小説におけるエゴイズム」をテーマにした研究である。具体的に大正3年から7年までの作品、『羅生門』、『鼻』、『芋粥』、『蜘蛛の系』の四作品を研究内容と限定したい。そして、研究方法としては、文献調査法で行うことにする。以下、三つのステップを踏えた上で、研究対象としたものにアプローチしていきたい。

1.まず、発表順にこの四作品における「エゴイズム」を分類し、各作品に現れている特色を明らかにする。
2.次に、各作品の特色を見出した上、各作品にある共通点及び相違点を比較する。また、その間に見られる変遷をも究明したい。
3.それから、第2点でまとめた「エゴイズム」を芥川龍之介の生い立ちに照らし合わせながら、そのかかわりを明白にさせるように作家論へと発展させていく。

以上のように、上述した三つのステップに沿って、芥川龍之介の歴史小説におけるエ
ゴイズムの内実を究めたいのである。


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