第一章芥川龍之介の歴史小説におけるエゴイズム

第四節『芋粥』をめぐって
 『芋粥』の主人公は「五位」である。『芋粥』の中で人間の愚さか、悲しさと生活の空しさを題材として論じている。「五位」はいつも、周囲の軽蔑を受けて生活している。まずは五位の外貌から見よう。

   五位は風采の甚揚らない男であつた。第一背が低い。それから赤鼻で、目尻が下がつてゐる。口髭は勿論薄い。頬が、こけているから、顎が、人並はづれて、細く見える。唇は-一一、数へ立ててゐれば、際限はない。我五位の外貌はそれ程、非凡に、だらしなく、出来上がつてゐたのである。
  この男が、何時、どうして、基経に仕へるやうになつたのが、それは誰の知つてゐない。が、余程以前から、同じやうな色の褪めた水干に、同じやうな萎した烏帽子をかけて、同じやうな役目を、飽きずに、毎日、繰返してゐる事だけは、確かである。その結果であらう、今では、誰が見ても、この男に若い時があつたと思はれない。(五位は四十を越してゐた。)

 以上によれば、「背が低い」と「赤鼻で、目尻が下がつてゐる」と「口髭は勿論薄い」と「頬が、こけているから、顎が、人並はづれて、細く見える」、「唇は-一一、数へ立ててゐれば、際限はない」から見て、五位は確かに外貌の方面に色々な欠点を持っている。それだけでなく、「同じやうな色の褪めた水干に、同じやうな萎した烏帽子をかけて」いる様子から、五位はみずぼらしく、たらしい人のように見える。それで、周囲の人達に差別されていることも自然に思われる。以下は周囲の人が五位に対しての態度である。

   侍所にゐる連中は、五位に対して、殆と蝿程の注意も払はない。有位無位、併せて二十人に近い下役さへ、彼の出入りには、不思議な位、冷淡を極めてゐる。五位が何か云ひつけても、決して彼等同志の雑談をやめた事はない。彼等にとつては、空気の存在が見えないやうに、五位の存在も、目を遮らないのであらう。(中略)彼等は、五位に対すると、殆ど、子供らしい無意味な悪意を、冷然とした表現の後に隠して、何を云ふのでも、手真似だけで用を足した。人間に、言語があるのは、偶然ではない。従つて、彼等も手真似では用を弁じない事が、時々ある。が、彼等は、それを全然五位の悟性に、欠陥があるからだと、思つているらしい。そこで彼等は用が足りないと、その男の歪んだ揉烏帽子の先から、切れかかつた藁草履の尻まで、万遍なく見上げたり、見下ろしたりして、それから、鼻で哂ひながら、急に後を向いてしまふ。

 「殆と蝿程の注意も払はない」、「不思議な位、冷淡を極めてゐる」、「五位が何か云ひつけても、決して彼等同志の雑談をやめた事はない」と「空気の存在が見えないやうに、五位の存在も、目を遮らないのであらう」などは別人が五位に対する態度である。侍所にいる連中は話さえ五位としない程、五位を軽視している。同僚達がそうだけでなく、ひどすぎる悪戯も始めた。そして、同僚達の悪戯が見られる。

   所が、同僚の侍たちになると、進んで、彼を翻弄しようとした。年かさの同僚が、彼の振はない風采を材料にして、古い洒落を聞かせようとする如く、年下の同僚も、亦それを機会にして、所謂興言利口の練習をしようとしたからである。彼等は、この五位の面前で、その鼻と口髭と、烏帽子と水干とを、品隲して飽きる事を知らなかつた。そればかりではない。彼が五六年前に別れたうけ脣の女房と、その女房と関係があつたと云ふ酒のみの法師とも、屡彼等の話題になつた。その上、どうかすると、彼等は甚、性質の悪い悪戯さへする。それを今一々、列記する事は出来ない。が、彼の篠枝の酒を飲んで、後へ尿を入れて置いたと云ふ事を書けば、その外は凡、想像される事だらうと思ふ。

上の描写から見れば、同僚達の中に五位の地位が非常に低い事は言うまでもない。それから、これらの軽蔑を受けた五位の反応は次のようである。

   それでも、五位は、腹を立てた事がない。彼は、一切の不正を、不正として感じないほど、意気地のない、臆病な人間だつたのである。(中略)五位はこれらの揶揄に対して、全然無感覚であつた。少くもわき眼には、無感覚であるらしく思はれた。彼は何を云はれても、顔の色さへ変へた事がない。黙つて例の薄い口髭を撫でながら、するだけの事をしてすましてゐる。唯、同僚の悪戯が、嵩じすぎて、髷に紙切れをつけたり、太刀の鞘に草履を結びつけたりすると、彼は笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、「いけむぬのう、お身たちは」と云ふ。その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一時或るいぢらしさに打たれてしまふ。

人間は外の人から軽視や軽蔑を受けたら、不服と抵抗などの反応は一般的であるが、主人公「五位」は逆に、黙って受けていて、怒るなどのは殆どしない。それらの卑劣な悪戯に対して、「全然無感覚」で、「何を云はれても、顔の色さへ変へた事がない」態度を持った。この点について、勝倉壽一は悪意を込めた周囲の人間達の悪戯に対しては、臆病な五位は「笑ふのか、泣くのか、わからない笑顔」に隠しながらも、「いけぬのう、お身たちは」という精一杯の抗議の声を発することが出来た。だが、彼の生を奪ったものが、憐憫や好意であり、幼稚な悪戯心であるとき、被害者は怒ることも泣くことも出来ない 」と指摘した。周囲の人が五位の反応を見た後で、意気地のない、臆病な五位だと思う事は不思議な事ではないと思われる。それにしても、五位はやはり僅かな勇気を出した時がある。それから、その場合はどうかを以下の描写から見よう。

   或日、五位が三条坊門を神泉苑の方へ行く所で、子供が六七人、路ばたに集つて、何かしてゐるのを見た事がある。「こまつぶり」でも、廻してゐるのかと思つて、後ろから覗いて見ると、何処かから迷つて来た、尨犬の首へ縄をつけて、打つたり殴いたりしてゐるのであつた。臆病な五位は、これまで何かに同情を寄せる事があつても、あたりへ気を兼ねて、まだ一度もそれを行為に現はしたことがない。が、この時だけは相手が子供だと云ふので、幾分か勇気が出た。そこで出来るだけ、笑顔をつくりながら、年かさらしい子供の肩を叩いて、「もう、堪忍してやりなされ。犬も打たれば、痛いでのう」と声をかけた。

ここは五位が殴られた犬を見た時、声をかけた場面である。たぶん、犬を殴った人は子供かもしれないからと思っているので、犬を救う事を試みたかった。この点について、勝倉壽一は「路上で尨犬を虐める悪童らに向かって、「もう、堪忍してやりなされ。犬も打たれば、痛いでのう」と生涯で殆ど唯一の「勇気」を奮いおこして言った時、彼は確かに世間に「打たれ」る自らの「痛」みをも語っていたはずである 」と述べている。しかし、相手は子供だけが、やはり、五位の気持ちを挫かせた。それは次のようである。

すると、その子供はふりかへりながら、上眼を使つて、蔑すむやうに、ぢろぢろ五位の姿を見た。云は侍所の別当が用の通じない時に、この男を見るやうな顔をして、見たのである。「いらぬ世話はやかれたうもない」その子供は一足下りながら、高慢な脣を反らせて、かう云つた。「何ぢや、この赤鼻めが。」五位はこの語が自分の顔を打つたやうに感じた。が、それは悪態をつかれて、腹が立つたからでは毛頭ない。云はなくともいい事を云つて、恥をかいた自分が、情なくなつたからである。彼は、きまりが悪いのを苦しい笑顔に隠しながら、黙つて、又、神泉苑の方へ歩き出した。後では、子供が六七人、肩を寄せて、「べつかつかう」をしたり、舌を出したりしてゐる。勿論彼はそんな事を知らない。知つてゐたにしても、それが、この意地気のない五位にとつて、何であらう。

 本は、相手は子供だと思った五位は、依然、鼻を折った。「上眼を使つて、蔑すむやうに」五位を「いらぬ世話はやかれたうもない」と見て、「いらぬ世話はやかれたうもない」と言い出した。この話を聞いていた五位は却って、「自分の顔を打つたやうに」感じであった。黙って帰ったのは五位が唯、出来ることである。こんな五位は、来る日も来る日もいつも軽蔑されて生活しているが、実は、五位の心に、ある小さい希望を持っている。それは以下のようである。

では、この話の主人公は、唯、軽蔑される為にのみ生まれて来た人間で、別に何の希望も持つてゐないかと云ふと、さうでもない、五位は五六年前から芋粥と云ふ物に、異常な執着を持つてゐる。(中略)吾五位の如き人間の口へは、年に一度、臨時の客の折にしか、はいらない。その時でさへ、飲めるのは僅に喉を沾すに足す程の少量である。そこで芋粥をあきる程飲んで見たいと云ふ事が、久しい前から、彼の唯一の欲望になつてゐた。(中略)五位は毎年、この芋粥を楽しみにしてゐる。が、何時も人数が多いので、自分が飲めるのは、いくらもない。

「芋粥を飽きたい」というものは五位が唯、一つの願いである。五位は毎年、芋粥を食べる機会があるが、少量の芋粥だけあるから、五位はいつも、痛烈に飲めなかった。その時の五位は、自分に属する芋粥を飲んでしまった後、「何時になつたら、これを飽ける事かのう」と小さい声で呟いた。それは以下のようである。

   「大夫殿は、芋粥に飽かれた事がないさうな」五位の語が完らない中に、誰かが、嘲笑つた。錆のある、鷹揚な、武人らしい声である。(中略)声の主は、その頃同じ基経の恪勤になつてゐた、民部卿時長の子藤原利仁である。(中略)「お気の毒な事ぢやの」利仁は、五位が顔を挙げたのを見ると、軽蔑と憐憫とを一つにしたやうな声で、語を継いだ。「お望みなら、利仁がお飽かせ申さう」始終、いぢめられてゐる犬は、たまに肉を貰つても容易によりつかない。五位は、例の笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、利仁の顔と、空の椀とを等分に見比べてゐた。「おいやかな」「、、、、、、」「どうぢや」「、、、、、、」(中略)答へ方一つで、又、一同の嘲弄を、受けなければならない。或は、どう答へても、結局、莫迦にされさうな気さへする。彼は躊躇した。もし、その時に、相手が、少し面倒臭さうな声で、「おいやなら、たつてとは申すまい」と云はなかつたなら、五位は、何時までも、椀と利仁とを、見比べてゐた事であらう。彼は、それを聞くと、慌しく答へた。「いや、、、、忝うござる」この問答を聞いてゐた者は、皆、一時に、失笑した。「いや、、、、忝うござる」-かう云つて、五位の答を、真似る者さへある。所謂、橙黄橘紅を盛つた窪坏や高坏の上に多くの揉烏帽子が、笑声と共に一しきり、波のやうに動いた。中でも、最、大きな声で、機嫌よく、笑つたのは、利仁自身である。「では、その中に、御誘ひ申さう」さう云ふながら、彼は、ちょいと顔をしかめた。こみ上げて来る笑と今飲んだ酒とが、喉で一つになつたからである。「、、、しかと、よろしいな」「忝うござる」五位は赤くなつて、吃りながら、又、前の答を繰返した。一同が今度も、笑つたのは、云ふまでもない。それが云はせたさに、わざわざ念を押した当の利仁に至つては、前よりも一層可笑しさうに広い肩をゆすつて、哄笑した。

 ここで、第二の主人公-利仁が登場した。利仁は「肩幅の広い、身長の群を抜いた逞しい」大男である。『芋粥』で、利仁を「この朔北の野人は、生活の方法を二つしか心得てゐない。一つは酒を飲む事で、他の一つは笑ふ事である。」と説明している。だから、利仁は五位を笑う事も可笑しくないと思われる。利仁が「軽蔑と憐憫とを一つにしたやうな声」で「お望みなら、利仁がお飽かせ申さう」という話を聞いた五位は「いぢめられてゐる犬は、たまに肉を貰つても容易によりつかない」ようにあまり信じられないで、「はい」と肯定な答えに決まりを付けない。しかし、五位はやはり自分の長い時間での願いに違反しないために、「何時までも、椀と利仁とを、見比べて」いて、漸く「いや、、、、忝うござる」と答えた。この答案に、皆も哄笑して、「いや、、、、忝うござる」と五位の声を真似た人さえもいた。以上の内容から見れば、五位は又、皆に冗談をした事は言うまでのない。五位が呟いたことを聞いた利仁は五位に、極めて吸引力がある誘いを提出した。少し躊躇したが、五位は自分の心と相違しなく、「忝うござる」と吃った声で答えた。皆に笑われても、五位も構わないで、「芋粥」というものに集中して自分の世界に落ち込んだ。その時、五位の気持ちは次のようである。

五位だけは、まるで外の話が聞えないらしい。恐らく芋粥の二字が、彼のすべての思量を支配してゐるからであらう。前に雉子の炙いたのがあつても、箸をつけない。黒酒の杯があつても、口を触れない。彼は、唯、両手を膝の上の置いて、見合ひをする娘のやうに霜に犯されかかつた鬢の辺まで、初心らしく上気ながら、何時までも空になつた黒塗の椀を見つめて、多愛もなく、微笑してゐるのである。

 そうすると、利仁と誘われた五位とは芋粥を食べるために出発した。「物静に晴れた日」で、「加茂川の河原」に沿って、「芦毛」に乗った五位は「月毛」に乗った利仁に「どこへ行く」と聞いて、「栗田口辺」という返事をもらった。けれども、栗田口辺を通り過ぎて、やはり乗っていた五位は再び利仁に聞くと、「山科」という答えをもらった。それから、やっと山科に着いた利仁と五位は昼食を終った後、又馬に乗って、道を急いだ。この時、五位に聞かれた利仁はやっと終点を話し出した。それから、利仁と五位との間の話は以下のようである。

利仁は微笑した。悪戯をして、それを見つけられさうになつた子供が、年長者に向かつてするやうな微笑である。鼻の先へよせた皺と、目尻にたたへた筋肉のたるみとが、笑つてしまはうか、しまふまいかとためらつてゐるらしい。さいして、とうとう、かう云つた。(中略)「それは又、滅相な、東山ぢやと心得れば、山科。山科ぢやと心得れば、三井寺。揚句を越前の敦賀とは、一体どうしたと云ふ事でござる。始めから、仰せられうなら、下人共なりと、召つれようものを。-敦賀とは、滅相な。」五位は、殆どべそを掻かないばかりになつて、呟いた。もし「芋粥に飽かむ」事が、彼の勇気を鼓舞しなかつたとしたら、彼は恐らく、そこから別れて、京都へ独り帰つて来た事であらう。(中略)すると、利仁が、突然、五位の方をふりむいて、声をかけた。「あれに、よい使者が参つた。敦賀への言づけを申さう。」

 五位からの断らずにした質問に、利仁はやっと微笑して、悪戯をしたように話し出した。芋粥を飽きる事を手段として、五位を京都から騙し出してしまった。一方、芋粥を飽きるために、利仁につれて、一心に辿っていた五位は、そんな遠い所へ行かなければならないと思い出すと、芋粥のために湧いた微かな勇気も一瞬に失った。その時、馬に乗りながら観音経を口の中に念じ上げた五位は「あれに、よい使者が参つた。敦賀への言づけを申さう」という利仁の話を聞いた。そして、次の場面を見よう。

「これ、狐、よう聞けよ。」利仁は、狐を高く眼の前へつるし上げながら、わざと物々しい声を出してかう云つた。「其方、今夜の中に、敦賀の利仁が館へ参つて、かう申せ。『利仁は、唯今俄に客人を具して下らうりする所ぢや。明日、巳時頃、高島の辺まで、男たちを迎ひに遣はし、それに、鞍置馬二疋、牽かせ参れ。』よいか忘れるなよ。」云ひ畢ると共に、利仁は、一ふり振つて狐を、遠くの叢の中へ、抛り出した。

 突然、声を出した利仁は間もなく、狐を捕った。そして、「これ、狐、よう聞けよ。其方、今夜の中に、敦賀の利仁が館へ参つて、かう申せ。『利仁は、唯今俄に客人を具して下らうりする所ぢや。明日、巳時頃、高島の辺まで、男たちを迎ひに遣はし、それに、鞍置馬二疋、牽かせ参れ。』よいか忘れるなよ。」と言い終り、狐を放った。この情景を見た五位はどう考えたか。その考え方は次のようである。

五位は、ナイイヴな尊敬と讃嘆とを洩らしながら、この狐さへ頤使する野育ちの武人の顔を、今更のやうに、仰いで見た。自分と利仁との間に、どれ程の懸隔があるか、そんな事は、考へる暇がない。唯、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由が利くやうになつた事を、心強く感じるだけである。-阿諛は、恐らく、かう云う時に、最自然に生まれて来るものであらう。読者は、今後、赤鼻の五位の態度に、幇間のやうな何物かを見出しても、それだけで妄にこの男の人格を、疑ふ可きではない。

 この場面を見た五位は開いた口が塞がらないままに、尊敬した態度で利仁を神様のように見始めた。いつも軽視された生活した五位は、この事に会った後で、考える時間もなく、思わずに利仁の行為に引かれたから、自分と利仁の間に大きな差別があると五位の心で深く考えている。その考え方を持っている五位は自然に、一心不乱に利仁を信じている。そして、五位と利仁が着いた状景は以下のようである。

   此処まで来ると利仁が、五位を顧みて云つた。「あれを御覧じろ。男どもが、迎ひに参つたげでござる。」(中略)「夜前、稀有な事が、ございましてな。」二人が、馬から下りて、(中略)「何ぢや。」利仁は、郎等たちの持つて来た篠枝や破籠を、五位にも勤めながら、鷹に問ひかけた。「さればでございます。夜前、戌時ばかりに、奥方が俄に、人心地をお失ひなされましてな。『おのれは、坂本の狐ぢや。今日、殿の仰せられた事を、言伝てせうほどに、近う寄つて、よう聞きやれ。』(中略)『殿は唯今俄に客人を具して、下られようとする所ぢや。明日未時頃、高島の辺まで、男たちを迎ひに遣はし、それに鞍置馬二疋牽かせ参れ。』と、かう御意遊ばすのでございまする。」「それは、又、稀有な事でござるのう」五位は利仁の顔と、郎等の顔とを、仔細らしく見比べながら、両方に満足を与へるやうな、相槌を打つた。「それも唯、仰せられるのではございませぬ。さも、恐ろしさうに、わくわくとお震へになりましてな、『遅れまいぞ。遅れば、おのれが、殿のご勘当をうけならぬ。』と、しつきりなしに、お泣きになるのでございまする。」(中略)「如何でござるな。」郎等の話を聞き完ると、利仁は五位を見て、得意らしく云つた。「利仁には、獸も使はれ申すわ。」「何とも驚き入る外は、ござらぬのう」五位は、赤鼻を掻きながら、ちよいと、頭を下げて、それから、わざとらしく、呆れたやうに、口を開いて見せた。口髭には今、飲んだ酒が、滴になつて、くつついてゐる。

高島にやっと着いた五位と利仁は、利仁が言った通りに、郎等が迎える同時に、二匹の馬を用意した情況を確かに見た。それから、郎等は五位と利仁とに、「夜に可笑しい事を話した。これは奥方が自分の意志を失って、狐の話し方で「明日未時頃、高島の辺まで、男たちを迎ひに遣はし、それに鞍置馬二疋牽かせ参れ。遅れまいぞ。遅れば、おのれが、殿のご勘当をうけならぬ」などを言った。この対談を聞いた五位は「それは、又、稀有な事でござるのう」を話さなければならなかった。そう話した五位は最後に、「何とも驚き入る外は、ござらぬのう」を言いながら、呆れた様子をしたことも忘れなかった。上記の内容から見れば、五位このいつも皆から軽蔑を受けた男に深く同情に寄せたと思われる。同情を寄せる原因は軽蔑されることではなく、五位の愚かだからである。そこで、この作品の主題である人間の愚かさを見出すことが出来る。次に、五位が敦賀に来た部分を見よう。

   雀色時の靄の中を、やつと、この館へ辿りついて、長櫃に起こしてある、炭火の赤い焔を見た時の、ほつとした心もち、(中略)直垂の下に利仁が貸してくれた、練色の衣の綿厚なのを、二枚まで重ねて、着こんでゐる。それだけでも、どうかすると、汗が出かねない程、暖かい。そこへ、夕飯の時に一杯やつた、酒の酔が手伝つてゐる。

以上の本文は五位が敦賀に漸く来た気持ちの描写である。「炭火の赤い焔」を見て、「ほっとした気持ち」で、「綿厚な衣」を着て、「汗が出るほど暖かい」など、京都の自分の寮に比べると、「雲泥の相違」である。そんなによい気分に五位の心情はやはり不安で
ある。その原因は以下のようである。

   が、それにも係はらず、我五位の心には、何となく釣合のとれない不安があつた。第一、時間のたつて行くのが、待遠い。そかもそれと同時に、やるの明けると云ふ事が、-芋粥を食ふ時になると云ふ事が、さう早く、来てはならないやうな心もちがする。さうして又、この矛盾した二つの感情が、互に剋し合ふ後には、境遇の急激な変化から来る、落着かない気分が、今日の天気のやうに、うすら寒く控へてゐる。それが、皆、邪魔になつて、折角の暖かさも、容易に、眠りを誘ひさうもない。

敦賀に泊まった五位は暖かい衣を着たり、ほっとした気持ちをしたり、少しお酒を飲んだりしても、安心できない。「待っている」気持ちと、「芋粥を早く食べたくない」気持ちと矛盾した気持ちの中で、五位は迷っている。迷っている原因は以下を見よう。

   どうもかう容易に「芋粥に飽かむ」事が、事実となつて現れては、折角今まで、何年となく、辛抱して待つてゐたのが、如何にも、無駄な骨折のやうに、見えてしまふ。出来る事なら、何か突然故障が起つて一旦、芋粥が飲めなくなつてから、又、その故障がなくなつて、今度は、やつとこれにありつけると云ふやうな、そんな手続きに、万事を運ばせたい。

 ここから、五位が迷っている原因が明らかである。唯、大事な願いを守っている、幸せな五位は「年に一度、臨時の客の折に」、「僅かに喉を沾すに足る程の少量」しか味わない芋粥を一旦、飽きたい希望を完成するなら、生活の目標も失ってしまった。「芋粥を飽きる」と期待した。一方、あまり容易に達せられると心で気にした。その気持ちを持った五位は本当に、芋粥を飽きることに面している時に、どんな場面であるかを以下の引用から見よう。

   さいして、自分が、その芋粥を食ふ為に京都から、わざわざ越前の敦賀まで旅をして来た事を考へた。考へれば考へる程、何一つ、情無くならないものはない。我五位の同情すべき食欲は、実に、此時もう、一半を減却してしまつたのである。(中略)これを、目のあたりに見た彼が、今、提に入れた芋粥に対した時、まだ、口をつけない中から、既に、満腹を感じたのは、恐らく、無理もない次第であらう。-五位は提を前にして、間の悪さうに、額の汗を拭いた。

 芋粥を食べるために、京都から遠い路を急いた五位は、こんな一杯な芋粥を見るだけでもううんざりした。可笑しい気持ちだが、この気持ちは確かに、今の五位の心情である。だから、鍋の前に座っている五位は気を悪くした。それから、利仁はどんな手段で、五位に芋粥を飲ませる情景は次に見よう。

   「芋粥に飽かれた事が、ござらぬげな。どうぞ、遠慮なく召上つて下され。」(中略)「父も、さう申すぢやて。平に、遠慮は御無用ぢや」利仁の側から、新な提をすめて、意地悪く笑ひながらこん事を云ふ。弱つたのは五位である。遠慮のない所を云へば、始めから芋粥は、一椀も吸ひたくない。それを今、我慢して、やつと、提に半分だけ平げた。これ以上、飲めば、喉を越さない中にもどしてしまふ、さうかと云つて、飲まなければ、利仁や有仁の厚意を無にするのも、同じである。そこで、彼は又眼をつぶつて、残りの半分を三分の一程飲み干した。もう後は一口も吸ひやうがない。「何とも、忝うござつた。もう十分頂戴致したて。-いやはや、何とも忝うござつた」五位は、しどろもとろになつて、かう云つた。余程弱つたと見えて、口髭にも、鼻の先にも、冬とは思はれない程、汗が玉になつて、垂れてゐる。「これは又、御少食な事ぢや。客人は、遠慮をされると見えたぞ。それそれその方ども、何を致して居る」

この一文から、利仁の悪戯な心を読み取ることができる。利仁が側に意地悪く笑いながら、「父も、さう申すぢやて。平に、遠慮は御無用ぢや」と言った。それに対して、臆病な五位は一層、弱く見えそうである。この点について、勝倉壽一は「利仁の形象には、「微笑を含みながら、わざと、五位の顔を見ないやうにして」越前まで連れ出す悪戯心と、それを隠し通せずに、「笑つてしまはふか、しまうまいかとためらつてゐる」人の良さ、及び、「悪戯をして、それをみつけられさうになつた小供が、年長者に向かつてするやうな微笑」などが付加されて、その行為の稚気性が強調される 」とに説明している。上記の論述から、利仁の本意五位への悪戯を読み取れる。「お望みなら、利仁がお飽かせ申さう」と憐憫な声で、五位にそう言い出した利仁はやはり、ほかの人と同じように、意地悪い考えを持った。この場面に発展するに至って、五位の結末は次に見よう。

   利仁の命令は、言下に行はれた。軒からとび下りた狐は、直に広庭で芋粥の馳走に、与つたのである。五位は、芋粥を飲んでゐる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返つた。それは、多くの侍たちに愚弄されてゐる彼である。京童にさへ「何ぢや。この赤鼻めが、」と、罵られてゐる彼である。色のさめた水干に指貫をつけて、飼主のない尨犬のやうに、朱雀大路をうろついて歩く、憐む可き、孤独な彼である。しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云ふ欲望を、唯一人大事に守つてゐた幸福な彼である。-彼は、この上芋粥を飲まずにすむと云ふ安心と共に、満面の汗が次第に、鼻の先から、乾いてゆくのを感じた。

 上述の内容から見れば、五位は皆の注意が自分から狐へ移転したので、芋粥をついに止めたことがわかる。この利仁の命令により、芋粥をご馳走した事を見た五位はまだ、ここへ来ない尨犬のような自分を思い出した。あの時の自分は、いくら軽蔑を受けても、孤独に沈んでも、みずぼらしく、だらしい水干を着た自己に属した希望を持ったので、やはり幸福を抱えている。芋粥を飽きる機会をもらうために、利仁と交換したのは、本の幸福である。反って、五位が得たのは、芋粥に飽きたことがもたらした不自由である。言い換えれば、五位は自由な「尨犬」から、自分での意志でもない一層哀れな「狐」への境地に入った。これについて、勝倉壽一は以下のように指摘している。

「夢想の無惨な実現によって五位の人生には確かな変革の時期が到来した。それは、自らの生活を律してきた芋粥の夢に対する執着からの解放をも意味していた。芋粥の夢こそは、惨めな世俗生活を忍従するための逃避の場でもあったからである。しかし、自立の意志も展望も、人間の誇りさえ持たない尨犬は、芋粥の夢想に生きた過去を懐かしむ、より惨めな境遇に塒を求めるばかりである。

 上述したことから窺えるように、つまらない悪戯や、優れた人「利仁」の自尊心や、弱い人「五位」の哀れや、表に好意という傍観者のエゴイズムなどの色々な人間性が明らかになった。この作品で、長い時間で追求した希望を一心に達して、漸くもらった結果が現実と合わない時に、失望し、問いなどの気持ちがあったが、やはりこれらの気持ちを隠して、「笑ふのか、泣くのか、わからないやうな顔」をする五位は確かに現実社会に生きる人々に示唆的だと思われるのではないか。

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