第三章 エゴイズムと芥川龍之介との生い立ちのかかわり

 本論文で『羅生門』と『蜘蛛の糸』と『鼻』と『芋粥』とを中心に論じている。そして、この四つの作品の中に二点が見出せる。まず、この四つの作品は殆ど『今昔物語』から題材を得た作品である。第二、この四つの作品の主題は「エゴイズム」と「傍観者の利己主義」とを中心に展開している。だから、この二点から、「歴史物語」と「利己主義」とは芥川龍之介にとって、とても大切なことが明らかである。そうして、まず、芥川龍之介の幼年時代を見よう。

芥川龍之介は明治二十五年(1892)三月一日、東京市京橋区入船町に生まれた。(中略)龍之介の生まれた当時の築地入船町は、外人居留地になっていた。それゆえ、この町に日本人で家を構えていたのは、龍之介の家を含めてわずか三軒を数えるのみで、異国情趣の色濃くただよう町であった。彼は生まれて一年にもみたない短い月日をこの町で送ったにすぎない。しかし、この生まれた土地を懐かしむ心は年とともに、彼の胸裏に強くなっていったようである。後年の龍之介における異国的なものへの憧れは、この外人居留地に彼が生まれたということと無関係ではなかろう。

 この一文から、芥川龍之介の成長背景が明らかにした。そして、芥川龍之介の家庭情況を以下に示そう。

龍之介の生まれた年は、父が四十三歳の男の厄年、母が三十三歳で女の厄年にあたっており、いわゆる大厄の年の子であった。そのために、旧来の迷信に従い形式的に捨て子とされた。まだ封建時代の風習が強く残っていた当時としては、このような縁起をかつぐ習慣は、決して珍しいことではない。拾い親は、父親の旧友である松村浅二郎という人であった。龍之介は出生の第一歩において、たとえ形式的にせよ、一応親から捨てられたのである。(中略)龍之介の父敏三は、牛乳販売業者としての成功者の誇りをもった、激しい性格の人であった。そのような夫に仕えていた小心で内気な芥川龍之介の母にとって、長女初子を幼くして失ったことと、長男龍之介を捨て子の形式までして育てねばならなかったということはきわめて大きな苦しみであったろう。それらは堪えがたい重さをもって、彼女の肉体や精神をしめつけたに違いない。この不幸な母は龍之介を生んでから七ヶ月後に発病し、その後十年間、狂人として生きつづけた。この母の発狂は、龍之介にとって大きな通手であった。狂人の子であるという自覚は、やがて狂気の遺伝を恐れる心となり、彼の肉体の衰弱とともに次第に激しいを加えていったのである。

ここで、芥川龍之介の実家から養家への原因が明白である。一方、母の発狂のために、芥川龍之介に、大きな影響を与えたことも、この一文の中にはっきりに読み取れる。母の発狂のために、芥川龍之介は母の兄の家へ行ったことになった。そうして、芥川龍之介は養父母の家庭からどんな大きな影響を受けている事は次のようである。

母の発病のため、龍之介は本所区小泉町に住んでいた母の芥川道章に引きとられた。芥川道章は龍之介の伯父にあたり、家は代々お数寄屋坊主として殿中に奉仕していた、江戸時代から続く旧家であった。(中略)芥川家で龍之介を最も愛したのは、養父母より、むしろ伯母のふきであった。一生を独身で通したこの伯母は、彼を生みの母のように愛し育てた。幼時いつも抱寝してくれたのはこの伯母であり、乳の代わりに牛乳を飲ませてくれたのもこの伯母であった。そのかわり、この伯母によく似通っていた。顔かたちばかりではなく、心持の上でも彼はこの伯母と一番共通点が多かった。(中略)一方、江戸時代の迷信に生きる養父や養母から、あるいは伯母から、夏の夜の縁台で、寝る前の床の中でしばしば聴かされて育ってきた。さらにまた、家の本箱の中や、暗い土蔵の中の古い草双紙の挿し絵の中に怪奇の世界を見つけて育ってきた。この点から見れば、龍之介の作品のあるものに奇怪な趣味が色濃く流れているのは、生まれた性格的なものの外に、幼少の時に、このような怪奇の世界に触れた時の戦慄が、成人した後でまで消えずに残っていて、それが文学表現の中に流れ出たと解釈されよう。

 芥川龍之介の養家はお数寄屋坊主としての殿中だから、芥川龍之介は幼少の時から、養父と養母と一緒に歌舞伎に行ったことがあった。しかも、芥川龍之介の養父が俳句や南画や盆栽などに趣味が持ったから、その方面にも渡っていた。そんな関係で、芥川龍之介がだんだん画や俳句に渡り、漢文能力にも強く示したことにも、芥川龍之介は養家の雰囲気から大きな影響をもらった。それから、芥川龍之介の学生時代を以下に見よう。

龍之介は学校の授業では、特に英語と漢文に抜群の力を示した。(中略)五年生の時、校友会雑誌に寄せた『義仲論』は彼の中学時代の作品としては最もまとまったものであるが、特に彼の漢文と歴史の高い学力を示すものとして注目に値しよう。『義仲論』は中学生の作品とは信じられないほどの歴史への鋭い観察とたくみな文章からなり、単に漢文と歴史との総合学力を示しているだけではない。この『義仲論』一編に後の小説家龍之介誕生の可能性を見出すとともに、彼の文学的才能のあまりにも早熟な開花を見せ付けられるのである。

以上の内容から見ると、芥川龍之介の文学的才能が再び肯定できる。芥川龍之介は中学の時、『義仲論』を發表した。『義仲論』で、強く現われている力強い義仲に高く評価を与えたことから、芥川龍之介はこんな破壊力へ、大きな憧憬があることを読み出すことができる。だから、この憧憬は芥川龍之介の作品への影響も思える。次に、芥川龍之介の高校時代を見よう。

明治四十三年、龍之介は第一高等学校に入学した。(中略)久米正雄、菊池寛、恒籐恭、成瀬正一(中略)山本有三、土屋文明、(中略)秦豊吉、藤森成吉、豊島与志雄、山宮允、近衛秀麿らがいた。後年、文壇や学界に名を馳せたこれらの青年との接触は龍之介に色々な意味で感化を与えたことであろう。殊に、菊池、久米、松岡らが同級生にいたことは芥川龍之介の将来を決定する一つの要因となった。彼らの交友が、小説家龍之介の誕生の上に、大きな役割を果たしたことはいうまでもない。一高入学はそのまま小説家への道につながっていたのである。

 久米正雄、菊池寛、恒籐恭ら、これら人は殆ど大正時代での有名な作家達であった。芥川龍之介は高校時代から、様々な考え方を持った人々と一緒に学問が進んでいたことにより、違い思想に触れたことでも言える。それから、芥川龍之介の大学時代を以下のようである。

龍之介たちが大学へ入った年は耽美主義文学の最盛期であった。(中略)この耽美主義思潮の影響は、決して軽視できない。龍之介をはじめに、久米正雄も菊池寛も自然主義以上の感化を受けているのである。(中略)このように大学時代の龍之介は耽美派の文学に最も心を惹かれ、強くその影響を受けているのであるが、そのほかにも、森鴎外の感化を忘れてはならない。鴎外の作品中、特に大きな影響を与えたのは『諸国物語』である。(中略)この翻訳小説『諸国物語』は短編小説の新しい手法、新しい内容と様式を龍之介に暗示したという点で大きな影響を持つ作品集である。そのほか鴎外の歴史小説も龍之介に強い感化を与えており、文体の面でも鴎外と龍之介には似通った点が多いのである。後年、佐藤春夫は「芥川君はその門に出入した点では確かに漱石先生の弟子ではあるけれども、作品から重大な影響を受けたのは、鴎外先生の方が或は多からうと思へる程です」と語っているが確かにそのとおりである。

 ここから、芥川龍之介が森鴎外からの影響を受けたことは言うまでもない。この影響で、芥川龍之介は歴史物語に創作しはじめた原因だと思われる。そして、大学時代の芥川龍之介は友人久米正雄らからの鼓吹で、だんだん小説家の道へ始まった。そのために、第三次の「新思潮」は創作された。参加者は芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、山本有三、豊島与志雄らがいた。第三次「新思潮」の同人となって、小説の創作を試みたことは芥川龍之介の将来の進路を決定的な重要な事だと同時に、この時期に芥川龍之介にとって、大きな事件が芽生えかけていた。

芥川龍之介の初恋の相手は、彼の実家新原家の知り合いの家の娘であった。名前は吉田弥生といい、きわめて聡明な女性であった。順当ならば結婚にまで進んでところを、どういう理由でか、芥川家ではその結婚に反対で、彼女の家を龍之介が訪問することさえ喜ばないようになった。(中略)この初恋の破局は龍之介に深い痛手を与えた。彼はいまさらながら、養子であるわが身の不自由さを痛感したに違いない。そして、誰よりも愛する伯母に、誰よりも強く反対されたことによって、二人の間にある愛にもエゴイスティックなものを見出したであろう。龍之介は恋を捨てて、伯母への愛を取らなければならない。

元は、結婚したことは、家庭からの反対で中断した。その事件芥川龍之介に対して、極めて重要な事柄だと言える。しかも、その事件も芥川龍之介は人間のエゴイズムを痛烈に体験した。それから、「エゴイズム」という点について、芥川龍之介は恒藤恭宛への書簡には、以下の言葉を書かれた。

イゴイズムをはなれた愛があるかどうか。イゴイズムのある愛には、人と人の間の障壁をわたる事は出来ない。人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出来ない。イゴイズムのない愛がないとすれば、人の一生ほど苦しいものはない。周囲は醜い。自分も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。しかも人はそのまに生きる事を強ひられる。一切を神の仕業とすれば、神の仕業は悪むべき嘲弄だ。僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ。

上記の内容から、恋愛というものは芥川龍之介にとって極めて深刻な問題だが見出すことができる。そして、この初恋が芥川龍之介にどんな影響をされに見よう。

愛そのものの中にもエゴイズムを認めざるを得ないほど深く自覚されるようになった。そして、ともすれば暗くなる気持ちと直面するのを避けるためにも、彼はことされ現実から目をそむけ、なるべくユーモラスな古典の世界に浸ろうとする傾向を強めていくのであった。

この悲しい初恋の経験を契機として、芥川龍之介は人性の醜悪を中心に作品を書き始めた。だから、芥川龍之介の成長背景や、養家の家庭や、学校時代の友達や、恋愛経験から、芥川龍之介へのどんな大きな影響は読み出せる。

まず、自分の母は狂人だの事実だので、芥川龍之介は自分の体にも狂人の遺伝因子がある恐れだと思った。次、封建時代の迷信だから、芥川龍之介は生家から離れなければならなく、養家に入った。しかし、養家に入っただけあって、芥川龍之介は江戸時代の風俗や習慣や、草双紙や俳諧や南画によく知っていた同時に、漢文能力にもその時に強くなった。 

そして、養父母と伯母から怪談や因縁話を子供時期から聴いて育ったきたために、怪奇な世界に触れた戦慄がよく作品に流れていた。それから、大学の時、森鴎外の『諸国物語』などの作品を読んだから、「歴史物語」と「短編小説」に大きな動機を起こしたことが思われる。最後、吉田弥生との悲しい恋愛があったので、芥川龍之介が「エゴイズム」という人性を徹して感じだと言うまでもない。  

そこで、以上の原因から、『羅生門』と『鼻』と『蜘蛛の糸』と『芋粥』との四つの作品の中に、『今昔物語』に対しての感動と、歴史物語から取り出したものに新しく、革命的な精神と、人性の醜悪を痛烈に抉っていた濃い利己主義とエゴイズムなどを流れていることにも意外ではないと思われる。


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